生まれ育った家の記憶
私が生まれ、15歳まで暮らしたのは、たぶん昭和初期(もしかしたら大正時代?)に建てられた長屋の端っこの家でした。木戸をくぐって入ると短いアプローチの奥に玄関。玄関には衝立があって、冬は紙、夏は簾でした。玄関の奥には2畳ほどの用途不明な部屋がありました。
メインの部屋は6畳と4畳半の和室で、6畳が客間兼祖母と私と弟の寝室。4畳半が茶の間で掘りごたつがありました。掘りごたつは炭だったので、よく靴下の先を焦がしたものです。茶の間には火鉢もあって、お餅を焼いたり、お鍋を煮たりしていました。
茶の間のすりガラスの引き戸を開けると裏庭の縁側に出ます。縁側の横がお風呂でした。お風呂に脱衣場があった記憶がなく、子どものころはお風呂から上がると裸のままで茶の間に入っていたのを覚えていますが、母や祖母はどうしていたのか、中学生になった私はどうしていたのか、そこは謎です。
裏庭の横に台所があったのですが、たぶんもとは土間でそこに板を敷いたのでしょう。茶の間より一段下がっていました。マッチで点火していたガスから自動点火になり、お釜で炊いていたご飯が炊飯器になり、氷で冷やす木の冷蔵庫が電気冷蔵庫になり、調理道具の進化も台所の風景とともに見てきました。
裏庭には水道があって、朝の洗面はここでしていました。洗面器の水に映る空をぼーっと眺めては、母に急かされていたことを思い出します。ここで母や祖母がたらいと洗濯板で洗濯をしていたのは、ごく幼い頃のうすぼんやりした記憶。洗濯機がやってきて母と祖母がすごくうれしそうだったこと、ローラーみたいな絞り機が面白かったことは覚えています。
表にも小さな庭があり、そこに面して板の間がありました。部屋というより、ガラスの引き戸で庭と隔てた縁側のようなスペースでしたが、家の中で唯一「洋」の香りがする場所で(和室との間仕切りは障子でしたが)、私はここが結構好きでした。
板の間からほんの2mほどのトンネルみたいな廊下を抜けると、「離れ」と呼んでいる和室で、ここが父母の寝室でした。当然子ども部屋などはなく、私や弟の勉強机は板の間に置かれたり、離れに置かれたり、転々としていました。「自分のスペース」が欲しくて、机のうしろ1メートル四方ほどにテープを貼り、「入るな」と書いていたこともあります。
当時はこの家があまり好きではなく、古くて全面和風なのが「カッコ悪い」と思って、応接間のあるような友だちの家がうらやましいと思っていました。冬はとにかく寒く、夏は蚊帳を吊って寝るので暑く、なんといっても汲み取り式で大きなクモが出るトイレは最強に嫌いでした。家を建て替えることになったときは心からうれしくて、もとの家が惜しいなんてみじんも思いませんでした。
それなのに大人になってからの私は、ずっと「古い家好き」です。結婚してはじめて住んだ借家も、窓が木枠の古くて寒くて小さな平屋でした。それから何軒か引っ越してますがすべて築40年以上の一戸建てです。生まれ育った家の影響かなとも思いますが、同じ家に生まれ育った3歳下の弟は「絶対に新築マンション派」なので、その説も揺らぎます。
それでもいまだに弟と、「あの家にこんな場所があったよなあ」とか「あそこでこんなことした」とか、懐かしく語り合ったりします。外が近くて地べたが近くて、人も近くて、それがイヤなこともあったのだけど、今になると住みたいのはああいう家だと思ったりします。
障子紙の貼り替えをそばで見ていたこと、ガラス戸のネジ鍵をキュッキュッと回した感触、こたつや火鉢の炭のにおい。いろんな記憶が濃密に残っていて、たぶん私の好みを大きく形作っている気がします。しかし弟の「つるつるピカピカの新築マンション&最新設備好き」がどのように形成されたかは不明のまま。反動でしょうか?
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